ホンキートンクのカウンターで、銀次は目の前に置いた小さな籠のなかに鎮座するたまごを見つめていた。 籠もその中に敷かれた可愛らしい水玉模様の小さなクッションも、夏実がくれた物だった。
マリーアに聞いた話では、たまごは温めたりする必要がなく、銀次の蛮に対する想いがあればいいのだそうだ。 たまごが孵ってからは全てが銀次の判断次第になるのだが、孵らない事には何一つ始まらない。 だから、銀次はずっとたまごを見つめている。 閉じこもる場所が変っただけとも言えるが、それでも一人っきりで部屋の中に閉じこもられるよりはずっとマシになったと皆が思ったのだ。 そして、流石、あの蛮の母親代わりだった人物だと、妙な感心もしたのだった。 兎に角、何もかも拒否して閉じこもっていた銀次をホンキートンクまで出向かせたのだ。 「まだかなぁ」 たまごを見つめたまま、銀次はぽつりと呟いた。 「きっと直ぐに孵りますよ」 夏実が明るい声で応えた。 「そーだね。ありがとう」 銀次からは笑顔が返ってきた。閉じこもってからこっち、失われていたそれが、徐々に戻ってきている。 夏実とレナはそっと目を押さえた。 アルバイトたちの様子を、波児は新聞の影で見守っていた。
波児にとっても蛮は、相棒の息子というだけの存在ではなかった。 冷たく冷めた目をした子供。 それが別れてから再会した時の印象だった。 色々な出来事があり、共に過ごす時間の堆積が彼等をまるで自分の子供のように思う感情を育てていった。だから、失って悲しくないわけじゃない。 それでも、蛮自身が自分の生き様に後悔して無い様に、波児は感じていた。それだけが、波児にとっての救いになっている。
あの、戦いの後、いつの間にか蛮の身体が消えていた。 そうして、何故か、銀次と共に上の階から戻ってきたのを見た時は、本当に嬉しかったのだ。てっきり、消えてしまってもう、戻らないと思ったのだから。 そして、その後。 母親との溝を少しは埋められたのか、随分と穏やかな顔つきになったなと、思ったもんだ。
けれど──── その直ぐ後に、蛮は倒れた。 入院させて、検査を受けさせて、 分かった事は────
既に彼の身体はボロボロで、生きていること自体が不思議だと、医者に言われたのだった。 このまま入院させていても仕方がない、とホンキートンクの2階に引き取ったのだった。 そして、代わる代わる訪れる人々との穏やかな時を過ごし、皆に見送られるように一ヶ月ほどで彼は帰らぬ人となった。 薄く微笑んだように見えるその顔は、まるで眠っているとしか思えなくて、尚更皆の涙を誘ったのだった。 「私ね、勝手な想像なんだけど‥。もっと蛮君は生き汚いと、思ってた‥」 「死ぬもんか、死にたくねぇ…って、そう言ってくれりゃあ、どんなにマシか‥」 ヘブンと士度が呟く。 「どこか、仕方がないよって諦めたところもありましたよね」 と、花月。 「他人を助ける為になら、自己を犠牲にしても厭わない。彼は武士だった」 と、十兵衛。 「いっつも、優しかったですよ」 「はい、失敗しても、絶対にコーヒーを残したりはしなかったんです」 夏実とレナ。 「ったく、不器用なところだけアイツに似やがって‥‥」 波児の呟き。
そんな皆の様子を少し離れたところから、ただ呆然と銀次は見ていた。 そのまま部屋を飛び出すと、あのアパートの一室に閉じこもってしまったのだった。 食事とかを差し入れなければ、きっと食べたりする事も、拒否しただろう。 それ程全てを拒否していたのだ。
その銀次が、今ホンキートンクにいる。 笑顔も見せ始めている。 大した変化だ。 蛮のたまごとやらの威力なのだが、一体何が孵るのだろう?
|