渇望









目の前を軽快な足音が右から左へと歩いてゆく。

それを追うように頭を動かせば、それに気づいたらしい銀次の小さな笑い声が聞こえた。

「こっちは、台所だよ。のど渇いたでしょ? 何か取って来るからね」

「‥‥‥」

応えもせず、ただ真っ暗な闇を言われた方向に見るだけだった。






なんて馬鹿馬鹿しい。

自分のドジさ加減に腹も立つ。

仕事でのトラブルの所為で、というのならまだ怒りの納めようもあるが、ただ単に暇を持て余していた結果となれば話は変わってくる。

八つ当たりも出来ないようじゃ、怒りの納め方すら分からなくなっている。






公園で子供達と遊ぶ銀次。

俺はそれを近くのベンチから眺めていた。

暇すぎて屯していたホンキートンクからも追い出された結果だ。

公園での銀次の行動は、良くあることで、今更だと思っている俺は、のんびりとタバコの煙をくゆらせていた。

ついこないだの仕事で懐はそれなりには温かかったから、暇な日をのんびり過ごすのもいいかと思っていた。

ふと見た先のジャングルジム。その上から身を乗り出している、小さな子供。

誰も気づいていない。その子が落ちそうだ、なんて。

慌てた俺が立ち上がり、数歩でその場に駆け寄るのと、落ちかけていた子がずるりと手を滑らせるのと、どっちが先だったのか。

俺の手の中には落ちてきた子供。

そして、俺は駆け寄った勢いを殺せず、子供を庇い抱え込んだままジャングルジムに突っ込んだ。

流石にその音に気づいた銀次や子供たち、その親たちの声と、子供の名前(恐らく俺が助けた子の名前だろう)を叫ぶ女性特有の金切り声が溢れかえった。

そっから俺の記憶は無い。

恐らく気を失ったんだろう。

次に気づいた時は病院で頭には包帯が巻かれているようだった。

「蛮ちゃん、気がついた?」

「? 銀次?」

「うん。? どうかしたの?」

銀次の声はすぐ近くからした。気配もそこに銀次が居るという事をはっきりと伝えている。

しかし、俺の目には映らなかった。目を開けても、そこにはただ暗闇が広がるだけ。

「ぎ‥ぎん‥じ‥‥」

「何? どうしたの? あ、怪我、痛むの?」

声に不安そうな響きを感じ取ったらしい銀次はそっと俺の前髪を払いのけ、撫でる様に触れてきた。

(何か、安心する‥)

銀次の全身が、俺に『大丈夫』と訴えてくる。『守るから』『安心して』と。言葉じゃないそれら。

ほ〜っと俺は息を吐き、強張っていた体から力を抜いた。

(銀次が居るから、大丈夫。このまま光を失くしても‥)

目をゆっくりと閉じると銀次へと呼びかけた。声は意外にも冷静で、しっかりとしていた。

「担当の、医者呼んでくれるか?」

「うん、そりゃ呼ぶけど。意識戻ったら知らせてくれって言われてたし。じゃ、行ってくるから待っててね」




それからの一騒動は、想像通りだった。

いや、それ以上だったかもしれない。銀次の叫びが未だ耳から離れないのだから。

『オレの目なんか無くなってもいいから、蛮ちゃんの目を治してよ〜』

そんな銀次には悪いが、俺は冷静だった。いや、銀次がうろたえた所為で、逆に腹をくくったと言うべきかもしれない。

その後、俺は検査を受けて、疲れて眠ってしまった。だから、あの後銀次がどうしていたのかは知らないし、検査の結果がどうなったかも知らない。

もっとも、検査結果は早くても翌日の午後だと言っていたから、結果が出るのはこれからかも知れないが。

ぼんやりとベッドに寝そべったまま、目を見えない外へと向けていたら、控えめな声がかけられた。

「あ、あの、美堂さんですか?」

「ああ、そうだけど? えっと、誰?」

「あ、すみません。私、江崎と申します。今回はまことに済みませんでした。家の子を助けて下さったのに、こんな‥‥」

「ああ、あの子のお母さんか。気にしないでくれよ。自分でやった事だし。貴女の責任じゃないし」

そっと近づいてきた彼女の気配はお辞儀をした様だった。

「それでは、せめて今回の怪我の治療費だけでも。お陰でうちの子はかすり傷もせず無事だったんですから」

「それは、えっと俺じゃきっとわかんねぇから、王波児って人と話してもらえるかな」

「あ、そうですね。私ったら‥」

きっと若い母親なんだろう。声も柔らかな感じで、人当たりも良さそうだ。

「おい、蛮! 大丈夫か?」

「あ、ちょうどいいや。今来た人がそうだ」

駆け込んできた見知った気配と、その声で俺は江崎母にそう言って教えた。

後はお互いで挨拶しあっているようだ。それくらいは気配でわかる。

「また来る。ちょっと席、外すな」

波児はそう言って、彼女と病室を出て行った。どこかでさっき彼女が言った費用の話をするんだろうな。

物思いから現実に帰れば、押し黙った気配がベッドの脇に立っていた。

「‥銀次、ぶすったれてんなよ」

「‥無理、そんなの‥‥無理。蛮ちゃんが大変なのに‥笑ってなんかいられないよぉ」

まあ、銀次ならそうだろうな。けど、それじゃ俺が困る。

「あのな? 銀次。お前がそんなんじゃ、俺が困るんだよ」

「え?」

「俺は今、何も一人じゃ出来ないに等しいわけだ。まあ服ぐらいは着替えられるかも知れないが、右手の骨折が直るまでは無理だな」

「うん、それで?」

「それでだな、手伝いが必要なわけだ。でもなぁ、横でぐじぐじ湿っぽい奴は頼れそうにないと思えないか? ホントに頼っていいか不安になるわけだ」

ここまで言って銀次は漸く俺が何を言いたいのか理解できたようだ。気配がぱっと明るくなった。

「ごめんね、蛮ちゃん! オレがちゃんと手伝うから」

「ああ、頼りにするぜ?」

銀次が笑ったのが気配でわかった俺も笑顔を浮かべた。








一週間後、俺は退院した。

目は相変わらずだ。検査の結果、眼球自体には損傷がなくいたって健康だそうだ。

視力を阻害しているのは、後頭部の視覚を司る脳の一部の働きが鈍くなっている所為だろうと、脳のCTから判断された。

つまり、脳の視覚神経野の麻痺って事だ。

麻痺は軽度らしいから、視覚は戻るらしいのだが、それがいつ戻るのかの判断は曖昧であった。

ひょっとしたら明日、戻るかもしれないし、もしかしたら、一年後になるかも知れない。そういう判断らしい。

その為、俺は仕事も出来ないし、運転なんてもっと無理で。スバルに寝泊りすることも波児に禁止され、鍵を取り上げられた。

まあその代わりに今居る、マンスリーマンションを波児が借りてくれたんだが。

退院したその足で、その部屋に来た所だ。

「はい、蛮ちゃん。お茶だけど」

「あっと、サンキュー」

手を伸ばせば、銀次がその手にコップを触れさせてくれた。そのまま持てば手を離す。

緊張で喉が乾いていた俺は一気にコップの中のお茶を飲み干してしまった。

たかだが病院からこの部屋までの移動の一時間ほどに、こんなに緊張するとは予想すらしていなかった俺だった。

「は〜、うまかった」

「まだいる?」

「いや、もういいや」

「そう、じゃあこっちに来て‥」

俺の手を取り、肩に手を置いて銀次の促す方向へゆっくりと歩き出す。ドアが開けられた気配があって、別の部屋に入ったのがわかる。

「そのまま真っ直ぐ‥ね」

伸ばした手が柔らかな布団に触れた。

「ベッド?」

「うん、ベッド。蛮ちゃんはまだ怪我が完全に治って無いから、ここ使って」

「そりゃいいが、お前は?」

「この部屋にソファベッドも入れたんだ。そこで寝るから問題ないでしょ? 怪我が治りきるまでは一緒に寝るのは駄目だって波児さんから言われたから‥」

なるほどと俺は頷いた。骨折もまだギプスの下で、治ったとは言いがたい。それに、波児は俺が病室でたいして眠っていないことに気づいていたらしい。

病院というのは始終人が動いている場所だ。人も多いが、寝静まる事は大きな救急病院ではまず無いだろう。

その所為で、他人の気配に緊張を強いられていた俺はストレスからか、眠れなくなっていたのだった。

症状はかなりはっきりと出ていたのだろう。あっさりと今回退院できたのもそんな事情があった所為だった。尤も、週に2回の通院を言いわたされてはいたが。

「じゃあ、蛮ちゃんは疲れてるだろうから横になって。俺は波児さんとこに行って来るから。帰りにご飯もらってくるからね」

「ああ、わかった」

銀次に手伝ってもらいながら服を着替え、布団にもぐりこむ。

ふかふかの布団はほんのりと日差しを吸い込んでいて暖かかった。

銀次はぽんぽんと布団の上から軽く抑えるようにしてから、行ってきますと声をかけて部屋を出て行った。

少しして外とのドアの閉じる、少し重そうな音がして、室内は静寂に包まれた。

窓の外は日常の気配に満ちているが、室内は静かだ。病院とはちがう雰囲気に安心して俺はあくびをひとつすると目を閉じた。








「ただいま〜」

小さな声で呟く様に声をかけて銀次はそっと室内に入り込む。電気のスイッチを入れれば明るく照らし出された室内は彼が出て行った時のままだった。

「蛮ちゃん、寝てるのかな」

寝室のドアを開けて覗き込めばベッドの上に横たわった彼が見えた。

そっと近づけば、熟睡しているのか、起きた気配はなかった。

窓のカーテンを引き、蛮を覗きこんで、銀次は顔を顰めた。そっと額に手を当てれば、常日頃の彼の体温以上の熱さを感じた。

「波児さんの予想通り、だよね」

波児は今まで溜め込んでいたストレスから蛮が今晩、熱を出す可能性が高いと言っていた。

ため息を吐きながら、波児から持たされたひえぴたを取り出して、蛮の額に貼ってやる。

「蛮ちゃんは起きるまで寝かしておくとして、俺はお風呂に入っちゃお〜」

銀次は部屋を出て静かにドアを閉めたのだった。




ぽっかりと目が覚めた。

喉が渇いていてひりひりと痛む。

「‥ぎ‥じ‥」

声を出そうとしたが出たのはか細い掠れた呟き声だった。

どれ位眠っていたのか時間の感覚が無くなってしまっているから、まだ銀次が戻って来ていないかもと思い直し、室内の気配を探った。

と、テレビのものらしい人の話声が聞こえる。

(ってことは、戻ってきてはいる時間なんだ)

俺はベッドから起き上がると、音のする方向へ向かってそろそろと歩いた。壁に当たるとそのあたりを手探りする。ドアは直ぐに見つかった。

廊下に出て左側にキッチンとリビングがあったはずだ。

来たときの銀次の案内を思い出しながら壁を伝い歩く。音は確かにそっちからするから間違えてはいないだろう。

伝っていた壁が折れたところで立ち止まり、気配を探る。そんなに遠くない距離に見知った気配が一つ。

「ぎ、んじ‥?」

「あ、蛮ちゃん。起きたの? 熱は下がった?」

「え? 熱?」

銀次の気配が近づいてきて俺の額から何かをはがしていった。そしてひんやりとした手が触れる。

「うん、下がったね。お腹空いた? 喉は? トイレとかは大丈夫?」

「あ、喉、渇いた。腹は、すこし‥」

そう言えば昼にサンドイッチを食ったっきりだっけ。

「じゃあ、ここに座って。直ぐ持ってくるから」

銀次はソファに俺を座らせると、キッチンへと走っていった。

「まずはお茶ね。ご飯は今、温めてるから」

グラスを手渡され、俺は少しずつ飲んだ。ひりひりしていた喉にしみこむようだった。

「ご飯食べたら薬飲んで、また横になっててよ? 熱があったから今日はお風呂は止めにしてね」

「わかった」

銀次のいるだろう方向に向いて返事を返す。

電子レンジのものらしい機械音がして、直ぐに銀次が戻ってきたのだった。

「はい、蛮ちゃん。今日は疲れてるだろうからって、波児さんが雑炊にしてくれたんだ。まだいっぱいあるからおかわりしてね」

銀次は俺の手にスプーンを持たせると、その手をスープボウルのあるところへと持っていった。

「ここね」

「サンキュ」

小さな声で礼を言い、そのままスプーンに掬った。ゆっくりと口に運ぶ。

疲労から熱が出た所為なのか、薄い味付けの雑炊がやけに美味く感じられたのだった。






次の日は病院に行き、骨折の状態を見てもらった。

常人以上の回復力のお陰か、骨はほとんどつながったらしい。次回か、その次位の受診時にギプスを外しましょうと言われて、俺は素直に喜んだ。

このうっとおしいギプスが無くなれば、俺のストレスも一部は軽減するだろう。

なんにせよ、今まで苦も無く出来ていたことが出来ないということは、かなりのストレスになると初めて知ったのだった。

「良かったね、蛮ちゃん」

「ああ、ギプスが無くなるだけでも、かなり行動に自由が出来るもんな」

「着替えや、お風呂とか?」

「そう。風呂はまあ、一人でってのは無理だろうが、手伝って貰うことが減れば、銀次の負担も減るからな。お前、がんばりすぎ」

苦笑して言えば銀次は頭をぽりぽりと掻いているようだった。

「でも、オレさ不器用だから、ちゃんと手伝えてるか心配で」

「始めっからなんでも上手く出来る、なんて事は期待してねぇよ。がんばり過ぎて、お前が身体壊したら、そっちの方が困るだろ? お互いにさ」

「そうだよね、ごめんね」

素直な銀次に笑顔を向ければ、銀次も笑ったようだ。

目は未だ見えないけれど、きっと、大丈夫。

その時の俺は、まだそんな甘いこと考えて居られた。








後篇





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